震災の怖さをあらためて思い知る

KentaAida 2024年2月19日

早いもので2024年も2か月が経とうとしております。

まずはじめに、1/1に発生しました令和6年能登半島地震にかかる災害等により、お亡くなりになられた方々に謹んでお悔やみを申し上げますとともに、被災された皆様にならびにそのご家族、関係者の皆様に心よりお見舞い申し上げます。

 

私も中学3年生の時に被災をしました。阪神・淡路大震災、1995年1月17日の5時46分、と聞くだけで未だに鳥肌が立ちます。

枕元の本棚から無数の本や置物が頭の上に落ちてきたり、部屋のテレビが端から端まで移動していたりと壮絶な揺れは今でも忘れません。
自宅は神戸市長田区の北の方でしたが、坂上から見た神戸の街から無数の黒煙が出ていたこと、頭上には常にヘリコプターが飛んでいたこと、救急車やパトカーのサイレンが鳴りやまず鳴り響いていたことは脳裏に焼き付いております。

 

幸いなことに身内の負傷者はおりませんでしたが、自宅は少々傷みました。またライフラインも寸断されました。電気が一番早く2日後に届きましたが、水道が2か月、ガスが3か月復旧に時間を要しました。毎日給水車まで水をいただきに行ったのは今となれば懐かしい思い出ですし、水を運んでくれたりライフラインを復旧していただいた方々には感謝しかありません。
こんな状態でしたので、お風呂は震災後1週間入れませんでした。久々に入ったお風呂は気持ちよかったなぁ。頭を洗った時に、爪に頭皮というか垢がこびりついていたこともお風呂の有難さを実感した一幕でした。

 

学校というと、母校の校舎は半壊のうえ体育館は避難所となっておりましたので、震災のあとは結局3月の卒業式に1回だけ登校したのみで私の中学生活は終了となりました。何とも味気ない、でも濃厚な3学期の3か月でした。

 

震災の思い出は書き出したらキリがありません。でもやはり思い浮かぶことはたくさんの方々に助けていただいたことです。
救援物資をいただきに学校に行きますが、やがて様々な国からの救援物資が増えてきたことが印象的でした。本当にたくさんの方に助けられました。

 

北陸の方々にできることは限られておりますが、物心両面から少しでも助けとなることを考え実行していくことが被災から逃れた我々の責務かと思います。少しでも早く北陸の方々の落ち着いた暮らしが戻ることを願っております。

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